徳佐川
名古屋の中村遊郭の堀の記事でもチラッと書きました「徳佐川」です。
実は実家が超地元なんですが、徳佐川のことは最近まで知りませんでした。
余談ですが、上記地図上の「賑町」という文字のあたりにかつてオーモン劇場という映画館がありました。その向かいに産婦人科病院があり、自分はそこで生まれました。
その昔、水はけが悪かったこの地域で安井徳左衛門という人が私財を投げうって排水路を作ったことで農民が徳佐川と名付けたそうです。
まずは中村遊郭の堀からスタート。
微妙に左に曲がっているのが徳佐川との合流でしょうか?
カラーコーンに守られた幸橋の親柱。
先へ進みます。
太閤通に出て終点。
徳佐川はこの先も流れていたようですが、道としてはここでお終いのようです。
ちなみに、幸橋の痕跡を見たあとだと、家の角に置いてある石も何かの痕跡かと思っちゃいますよね。
以上。
中村日赤の弁財天
名古屋第一赤十字病院、通称「中村日赤」の敷地内に弁財天があります。
この祠がここにある理由を時系列で追ってみます。
まずはかつて大須にあった旭廓。
旭廓が移転することになり移転先が中村区の中村遊郭です。
中村遊郭の土地は湿地であったため整備するために土砂を盛ったのですが、それを採取したところが今の中村日赤の場所です。
土が採られて窪地になったところに水が貯まり池になりました。
遊里ヶ池です。
この遊里ヶ池で遊女の自殺や、身寄りのない遊女の死体が遺棄されたため、弁財天を祀る弁天寺が建てられました。
その後、遊里ヶ池は埋め立てられて中村日赤が建てられました。
弁天寺は別の場所に移されて御分身が中村日赤の中庭に建てられました。
更に、中村日赤が建て替えられて弁財天も今の姿となりました。
ちなみに、中村日赤の裏側の救急車が入るところの横です。
徳佐川も気になりますので、そのうちに調査します(通ったことある道ですが)。
以上。
楠橋
古い地名はバス停に残るという説があります。
地名に見る土地活用の変遷と地盤条件 | 名古屋大学 地震工学・防災グループ
名古屋の広小路通は名古屋駅から西は太閤通という名前に代わります。
そこに「楠橋」というバス停があります。
橋は無いのに楠橋とはこれ如何に?
ここは惣兵衛川が通っていて、今は暗渠になっています。
かつてはここに楠橋という橋が架かっていたと想像されます。
その痕跡です。
字が薄いですが「楠橋」と読めます。
この近所には昔、楠市場という市場があり、中村区中村町楠という地名も残っていますので、楠にちなむ何かがあったのではないかと思います。
近くの中村公園には加藤清正ゆかりの楠がありますが、関係は不明です。
以上。
蟹江川
今回は蟹江川を遡上します。
まずは、蟹江川排水機場
途中、晴明塚に寄り道しつつ遡ります。
右岸堤防を走っていたら猫がいました。
そーっと通ったら逃げませんでした。
が、その先はJRの線路で行き止まりでした。
猫がじぃーっと見ていますが、刺激しないように通り過ぎて左岸のほうへ。
何か歴史を感じさせる赤い橋が出てきました。
帰ってから調べたところ、「御葭橋(みよしばし)」という跳ね橋だそうです。
祭のときに山車みたいな船が通れるようにしているとか。
先へ進みます。
二股に分かれています。
東の方は小切戸川ですが、蟹江川の方へ。
葛の葉神社が見えます。
そのまま北上してくと、気がつくと大江川になっていました。
どうやら、名鉄を越えた辺りで大江川に名前が変わるようです。
そのうち、切り替わる地点を調査してみたいと思います。
以上。
出典:国土地理院ウェブサイト(https://www.gsi.go.jp)
安倍晴明と名古屋
最近知ったのですが、名古屋にも安倍晴明ゆかりの晴明神社があります。
安倍晴明は京都というイメージですが、名古屋にも来ていたようです。
Wikipediaだと西暦987年(寛和3年)に来ていたようです。
西暦921年(延喜21年)生まれなので66歳でしょうか。凄いですね。
他にも安倍晴明ゆかりの地はないかと検索したら出てきました。
「晴明塚」
しかも近場で二つも!
まずは一つ目、蟹江の晴明塚
蟹江川のそばにありました。
続いて、あま市
近くに葛ノ葉稲荷社という神社もあり、安倍晴明の母親である白狐の伝承がある大阪の葛の葉稲荷を勧請したそうです。
ちゃんとは調べてませんが、江戸時代に浄瑠璃、芝居が来て、後から晴明塚を作ったのかな?と想像されます。